生きていくために

そんなわけで正月に旅立つことができなかったのでしかたなくなんとか少しでも楽に生きなくてはいけないことになってしまった。
そこで生きていくためにしなくてはならないことを考える。
考えと気持ちが格闘してとんでもないことになっている。これは困る。
えてして人間なにも動かずに頭のなかでぐちゃぐちゃやってるだけでは気持ちに支配されてしまうもののような気がする。
考えにしたがわなくてはいけないとき、とりあえず動くというのはいいことなのかもしれない。気持ちだけで動くことはたいがいできないから、考えが支配してくれることになる、たぶん。
最初におもいついたのは、過去に閉じこもって生きること。
誰にだって一度はお姫様や王子様になった経験があるに違いない。自分のお姫様時代を思い出して、そこに沈んでくらそうという魂胆。
しかし過去は過去なのである。よほどの人でない限りはそんなのは無理で、自分にもやはり無理だった。どうやっても「そんなときもあったのかー、ふーん」くらいにしか考えられない。いやこれは相当にさめきってるのかもしれないけれど。
いつだってリアルなものは現在にしかないんじゃないかという結論にいたる。いや、過去がそのまんま現在性を与えられてるような(まあ、執着というやつでしょうね、妄想とか)、そんな状態なら、また話は別。というかその場合過去も現在ということになるわけですが(文章化しづらいなあこのへん)。
いくら過去に閉じこもって身を守ろうとしても(病的であってもそれが保身につながることもある、というかたいがいの狂気はそんなもんなのではないかなあ)、現在が大海原のように広がってそれにしか対峙してないもしくはできない以上、無理もいいところなのである。
というわけで、PTSDから自殺未遂までならネタにでもなんでもなるが、さすがに人間不信になると最低限の社会性の保持にも非常にやばいなということで、そのへんあやしくなるのを未然にふせぐため、現在の埋葬をするほかにないと結論が出る。
いやこれは、埋葬させてくれというのは常に叫んでいたことであったのだが。それすらさせてくれないという現状がある以上、もうなかば荒療治的にまたやっつけ仕事的に埋葬せねばなんともならないのだ。
というわけでこういう日記を書いてみたり、言霊の力にすがっているわけです。
今ある現在をどんどん言葉で否定して、書いて、読む。
それだけだといまいちアホな行動にしか思えない上精神衛生上よくなさそうなので、小説を書くとかなんとか試みてみる。
なにも自分そのままを書くのでもない。しかもそれは完成しなくたっていい。とりあえず現在が過去になるまで、ひたすらに書く、書きつづけるしかない。
いつか、書いたそばからなんらかの思いは揮発していく。
文章になることですごく他人事になっていく。
(そういう意味では日記というものをつけるのは、一日一日を埋葬するという効用があるのかもしれない。いい意味でも、悪い意味でも)
思いは他人事になり、絵空事になる。
そういう作業を、しばらくは続けるほかにないみたいだ。